『おとなのけんか』ロマン・ポランスキー

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 この作品のおもな舞台は、ブラインドとカーテンに囲まれたアパートの一室です。そのうえ、ヤスミナ・レザの戯曲『Le Dieu du carnage』(日本上演タイトルは『大人は、かく戦えり』)が原作であることや、1:2.35の横長なスコープサイズで撮られていることからも、『おとなのけんか』にはどこか演劇的な香りさえ漂っているように感じます。
 しかし演劇的な香りとは、原作やフレームサイズの問題だけにとどまらず、ひとえに演劇特有の「故意」が関わっていることにも起因しています。たとえばペネロペ(ジョディ・フォスター)とマイケル(ジョン・C・ライリー)のアパートには、ベーコンやココシュカなどの画集がテーブルに積まれています。しかしそれらは、単に空間の美術として積まれた画集ではありません。それらはのちに、妊娠中の「つわり」で嘔吐をもよおしたナンシー(ケイト・ウィンスレット)の恰好の餌食になってしまうのです。また玄関先に置かれた全身鏡も、外出前に身なりをチェックするためのものではありません。アパートを退出しようと玄関先へ向かうナンシーとアラン(クリストフ・ヴァルツ)の傍らで、つねに後退したペネロペとマイケルを捉えるように、ショットの中心ではない別の人物を映し出すための鏡なのです。このことからも、被害者の息子をかばうためにペネロペが漏らしてしまった「故意」という言葉は、まるで彼らの置かれている演劇空間の「故意」が見え隠れしていることを暗示しているかのようです。

 しかしその「故意」とは、アパートのなかで繰り広げられる演劇的空間に限られた話ではありません。この作品はアパートの前後に、屋外に開け放たれた「ブルックリン・ブリッジ公園」の場面が挿入されています。冒頭の場面では事の発端となった子どもたちの状況が捉えられ、最後の場面では「おとなのけんか」を尻目に、仲良く遊ぶ彼らの姿が映し出されます。そしてふたつの「幕間」に共通するのは、公園を取り囲むようにしてそびえ立つ巨大高層ビル群。「ビルに囲まれたブルックリン・ブリッジ公園」といった構図とは、「故意」に位置づけられたひとつの空間でもあるのです。つまり『おとなのけんか』における「故意」とは、演劇をはじめとした空間の生成や人物たちをつなぎとめるための装置であると同時に、監督であるロマン・ポランスキーによる「演出」そのものなのです。

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